千葉県は日本で最も古い武術の聖地であり、

この安房地域は武芸にまつわる歴史がとても深い場所です。


さらに遡って行くと、縄文時代から始まり

古墳時代、平安時代、戦国時代…とたくさんの史跡に溢れています。


かくいう当院も

『谷遺跡』と平将門公由来の『蜜蔵院遺跡』という2つの遺跡の一角の上に立っています。


(詳しくは文化財総覧webGISをご覧ください)


中でも千倉町は『寺庭』と呼ばれるほど神社仏閣とは縁が深い場所です。

是非、参拝巡り、歴史巡りをしてみて下さい☺️

(何かご利益があるかも…!)



この房総地域で住まわれていた方々の胃の中を調査したところ、海産物と陸産物の2つがバランスよく食べていたそうです。

温暖な気候と海の幸と山の幸…その住みやすさが古代房総地域を発展させたかも知れません。


縄文時代の遺跡 鉈切洞穴、加茂遺跡(一見ただの小屋ですが展示されている縄文土器は一級品です!)


加茂遺跡の近くに織田信長が信仰した『第六天神社』があります。全国に30箇所程しかないと言われていますが何故か房総にあります。

『永野台古墳』もありますが、墳墓の形状は残っていません。


久留里駅の近くに3つの大きな古墳が現在でも残っています。




すべての忍術書の元となった『軍法侍用集』

その礎を作り上げた源頼朝


当院近く千倉町の下立松原神社には

源頼朝が武運を願って写経した般若心経など600巻あまりが

保管されています。



白浜の下立松原神社は神狩の神社として源頼朝、里見義実が武運祈願のため太刀を奉納しています。



忍者の神様『役小角』が建てた 養老寺、小松寺

養老寺は健脚のご利益と言われています。



小野派一刀流 小野忠明生誕の地 


若き小野忠明を軽々とあしらった 今宮様の碑



歴史上最強の武将 本多忠勝 滝田城



南房総最古の寺であり足利頼氏を養育した 石堂寺



近代では勝海舟が元治元年に軍艦奉行となり安房守に任官。

明治2年に名前を勝安芳に改名

(勝海舟の父、勝小吉の師は伊賀流)

勝海舟が関わったと思われる幕末砲台跡も残っています。


源頼朝の配下より伝わる 三島の棒術



房総忍者の戦い

現在、房総忍者の流派は分かっていませんが、その激しい戦いはいくつか資料が発見されています。

この小さな房総各地を、命懸けで日夜飛び回っていた様子が伺えます。



天文七年 1538年 10月7日


北条氏綱、氏康親子の軍勢約3000騎と

足利義明と彼を支援する里見義堯の軍勢約2000騎が

下総国国府台(千葉県市川市)で決戦。

忍び限りなし(野伏)と記録されている。


巳刻(午前10時頃)~申刻(午後4時頃)まで戦闘


この合戦で北条軍が勝利。

足利義明、義純、基頼を始め重臣も多数戦死。

事実上滅亡した。

(小弓御所様御討死軍物語)




永禄元年 1558年 6月


北条康成は房総侵攻のため上総に渡海。

康成と共に上総の戦闘で功績があったのが

上総国衆 秋元氏の家臣 東修理亮

潜んでいた忍者たちを発見(伏兵)、

軍勢を率いてこれを押し散らして高名を上げた。

(戦北五八五号)



永禄二年 1559年 3月


北条氏康は従属していた

内房 正木兵部大輔に書状を送り、

里見氏の動きを探るべく

忍者を送り込み、逐一報告するよう求めている。

(戦房九九一号)




天正八年 1580年 12月


里見義頼の家臣 岡本氏元は梶原政景に書状を送り

房総での戦局を伝えている。


義頼は佐竹義重や武田勝頼と連携

一方で里見梅王丸には北条氏が加担し

家督をめぐり争っていた(天正の内訌)



岡本は年末の深夜、正木憲時から吉尾(鴨川市)にて攻撃を受ける。

これに対し、あらかじめ警戒を万全にしていた岡本勢は

正木勢が引き揚げようとした隙を突いて

忍びが襲いかかり(野伏)

約50人を討ち取り、敗走させた。

味方の忍びには1人の負傷者も出なかったという。

(戦房一七七七号)




江戸時代

仕官に漏れた忍者たち、風魔一族、武田乱波の子孫たち

が諸国で盗賊になっていると訴えたのは

下総国向崎 (千葉県神崎町)の甚内という大盗人。

自ら案内人を買い、奉行達を先導して盗賊狩りの大将となり

各地の村や野原、山奥に隠れ住む盗賊たちを壊滅させた。

その後、甚内は増長し、処刑される。

一説に甚内は武田の忍びの残党であったとも伝わっている。

(慶長見聞集)